撮影や取材にのぞむにあたって、いろいろと手はずがある。海外の場合には、言葉の問題から、情報収集に通信や交通、リスク対策、そして、現場でのもろもろ調整にと、あれやこれやと。事前の計画だって急に変わることも多い。何度か足を運んだところであれば、それなりのカンが働いて助けになることもあるけれど、初めて訪れるところは、ハードルも上がる。これまでの“しくじり”は大小さまざまあって、忘れてしまうことも多い。それでも、人とのやりとりで記憶に残る東ティモールでの出来事をいくつか、自らの戒めを込めて記しておきたい。いつでもどこでも当てはまるかもしれないから。
2000年の東ティモールは、国連による暫定政府のもと、ふしぎな国際色に満ちていた。世界各国からの国連スタッフ、平和維持のために駐屯している外国の軍部隊、支援機関にNGO…。行く先々で国籍が異なる人たちがいた。取材をするにはまず国連の報道パスが必要だった。申請をする部署に行くと、窓口にいたのはアフリカの民族衣装のような服を着た女性。毎日通い続けるが、なかなか許可証が出ない。
ある日も窓口に行くと、いつもの女性が座っていた。頭に布を結い上げ、背筋がピンと伸びている。パスができているか尋ねると、その高い目線から一言。「まだよ」。食い下がって尋ねてみても意味はなし。ため息と不愉快な気持ちを抱えたまま、列を外れる。
すると、その様子を見ていた、うしろで順番を待っていた男が窓口に歩みより、女性に言った。
「ハロー、元気? 」長身にブロンドが波打つ白シャツの男。アクセントからはフランス人か。
「今日もきれいだね」途端につんとした女性の顔が、晴れやかな笑顔に変わり、愛想よく会話を始めた。
わたしの心が舌打ちする。あんな言葉が功を奏すのか。もちろん、女性の麗しさに異存はなかったが、男の言葉はうわすべりに聞こえた。ただ、場の雰囲気がガラッと変わったのは明らか。それがパスを早く取得できることと関係ないかもしれないけれど。男はきっと、彼女と目を合わせ微笑んだのだろう。わたしはといえば、多分、挨拶もそこそこに、さえない表情だったにちがいない。もっとましなコミュニケーションがあったと思い知った。
それから、アシスタント兼通訳をしてくれた若者に「きつ過ぎる」と咎められたこともあった。20代の青年だったが、ここではこんなに働かないとクレームを受けたのだった。街が破壊され、通信網も十分ではなかった当時、足を使って取材することだけが頼りだった。限られた滞在期間で取材撮影はできるだけ効率よくしたい。日があるうちは各所を訪ね撮影したり話しを聞いたりあちこち動きまわる。亜熱帯の日差しは強くかなり暑い。
けれども、そんなにきつかったのか、とちょっと不満もくすぶる。朝は早くからでもなく夕方には終わっているし、休憩や昼食時間もちゃんと取っている。それに、軽くない機材はわたしが自分で抱えている。ここの暑さに慣れない、年長のよそ者からすると、逆になんだという思いもあった。けれども、実のところ、わたしは自分のことだけで、精一杯だったのかもしれない。言われてみると、青年は目は赤く疲労がにじんでいた。この地での働き方や生活のリズムなど「郷に入っては郷に従う」配慮が欠けていたのだった。
通訳とドライバーの地元男性二人と一緒に車で地方をまわったときのことだった。ある朝、ドライバーがしかめっ面で現われ、目を合わせないし、挨拶しても口を聞いてくれない。あまりに不機嫌なので、通訳に探りを入れた。すると、前日の夕方、仕事を終えたときに、わたしがレンタカーのキーをドライバーから預かったのがいけなかったらしい。
通訳の地元だったこともあり、仕事の後に2人が車を使っているようだった。それには事情があったのかもしれない。だけれど、仕事以外で無断に車を使われるのを放任して調子に乗られるのもいやだし、事故にでもあったら困る。そう思って、仕事の後にキーを預かることにしたのだった。
けれども、それはプロフェッショナルなドライバーとしての尊厳を損ねたのだった。わたしには他の国で騙されたりちょろまかされたりしてきた面白くない経験が下地にあったこともある。けれども、まずは相手の立場に立ってみるべきだった。わたしの懸念を伝える工夫も必要だったのかもしれない。弁解して詫びたものの、ドライバーの怒りはその旅の最後まで溶けなかった。
勘所を押さえるには、なにかと場数がいるのかもしれない。けれど、あとから振り返れば、これらすべて、尊厳に関わること、相手を尊重しているか、ということにつながっていたんだと思う。