海岸にそって、はるか彼方へと連なる砂丘。遠浅の浜から聞こえてくる波の音、潮の香に包まれながら、砂山に上る。渡る風に身をさらし、ただ波の音を聞く。この自然に溶け込んでいくことの至福を味わう。なだらかな斜面に、大きく影を落としながら流れいく雲にシャッターを切る。すると、いつのまにか、その光景は心の楽園になっていた。
「ブラジルで一番のパラダイスイよ」旅の途中で偶然出会ったスイス人から、ぜひ行ってみように勧められたブラジル北東部セアラ州の片田舎。車道もない、ただ白く荒れた砂地を乗り合いトラックで走り抜け、たどり着いたのがジェリクァクァーラ。家は砂地に、人々は裸足。当時は、電気も水もない、そんな小さな漁村だった。
村人のなかには夜も明けぬうちに海に出る人もいた。小舟に支柱を立て、高さ3〜4メートルの三角形の帆を張る。風を読んで、一本の舵棒を巧みに操り、風と舟の呼吸をとる。白帆が風を切り、水色の海面を滑りゆく。獲物はまったく捕れない日もあれば、大きな恵にあずかるときもある。朝夕の浜には、漁から戻った舟のまわりに、とれたての魚を求めて村人が集まる。
浜にはひときわ目につく砂丘があった。高さのある滑らかな三角のライン。すべてが蒼く沈む夜明け前は茫洋たる白い姿。日が昇り、さんさんと照りつけられると、まばゆいばかりに輝く姿に。それが日の傾きとともに、黄に赤へと色が変わり、やがてまた闇へと包まれていく。大西洋に面したその砂丘は、ときとともに“夕日の砂丘”と呼ばれるようになった。その雄大な砂丘が小さな漁村を唯一無二の名所たらしてめていた。
そもそもジェリクァクァーラは、80年代、欧米の自然志向の人たちに人気がある隠れたスポットだった。84年、ブラジル連邦政府によって自然保護区に指定されたが、その当時、ほとんどのブラジル人はその存在さえ知らなかった。87年、ワシントン・ポスト紙の特集で、世界でもっとも美しい10のビーチのひとつに選ばれると、徐々にその名が広まる。“ジェリ”いう名で親しまれ、2000年代に入ると一大観光名所となってゆく。
最初に訪れてから約10年もすると景観はずいぶん変わった。砂が移動して、いくつかのヤシの木は砂に埋もれた。ハンモックで寝るだけの簡素な宿のほかにホテルが建った。旅行ツアーにも組み込まれ、星空にラテンの音楽が鳴り響く。ゴミが増え、サンドバギーがエンジンを唸らせ走りまわる。シーズンには村の人口は何十倍にも膨れ上がり、砂丘は夕日を眺める観光客で埋まる。移住してきたよそ者も増え、土地の空気も変わった。外国や都会の人たちが経営する豪華なロッジ、しゃれた店も増えた。たいした金にならない漁よりも、観光客を舟に乗せ、サンドバギーをもつ暮らしに憧れる人も増えた。「昔はたくさんの舟があった。みんなまじめに毎日働いていた。だが今はどうだい。悪いものも入ってきた。ドラッグに溺れる若者もいるんだ。悲しいよ」そうこぼす老人も酔っぱらっていた。
2012年、再訪すると、あの“夕日の砂丘”が見当たらない。けれども、よくよく見ると、海岸沿いに三角ラインの面影がある砂山がひとつ。高さはかつての半分くらいか。夕方になると三三五五、そこに人が上るのを見て、やっぱりあれがそうかと。観光業の拡大とともに、人口は膨れ上がり、家や建物が倍増。砂丘が低くなったのは、砂を砂丘に運ぶ風の通り道がさまたげられていること、大勢が砂丘を踏むことなども影響している。ネットではそのような記事が散見された。砂丘が移動したり、縮小拡大したりすることは、もちろん、自然現象でもある。けれども、“夕日の砂丘”の場合は人為的な影響が大きいのではないか、と。
それからおよそ10年、たまたまネットで、“夕日の砂丘”が消えゆくという記事が目にとまった(下記Globo2023/03/30)。かつては高さ60メートルあった砂丘が、現在はなんと砂州に。掲載されていたのは変わりはてた姿…。その変わりようについては、観光が砂丘の消失を加速したと記されていた。
かつての、あの楽園のようなところはもうないのか… 心象風景のみと化していくのか… 万物流転。ただし、それは、風が吹き、砂が動けば、また、どこかに、あらたな砂丘が生まれうるということでもある。