東ティモール紀行 in 2000年 〜 回想メモ

 

  21世紀に初めて生まれた国、東ティモール。インドネシアからの独立をめぐる争乱の末、独立してから今年で21年。紛争直後の2000年、復興と新しい国づくりに向かう細長い国土の東西を歩いた。その回想録から…

 ターコイズブルーに縁取られた島々を、ときどき眼下に眺めながら、バリ島から飛行機で約2時間。島の山並みが近づくと、東ティモールのディリに着いた。

 市街地で目にしたものは、紛争で破壊され黒焦げになった建物や瓦礫ばかり。かつて虐殺事件が起きたサンタクルス墓地では嘆き祈る姿が胸にささる。耳にしたのは、おぞましい殺戮の数々。けれども、比較的状態の良い道路を島づたいにめぐると、少し前まで残虐な暴力が起きていたことを忘れてしまうほど、のどかな農村風景が広がっていた。緑鮮やかな棚田、田植えをしている巻スカートの女性たち。晴れ渡る空と南国の青い海。光きらめく沿岸からココヤシや熱帯の街路樹を抜けると、そこは一面、稲穂が黄金に色づいていた。人口の4分の3が農業を営むといわれていた。

 東ティモールの広さは日本の首都圏とほぼ同じ。古くはいくつもの王国に分かれ、いまでも地域特有の言葉や文化がある。異なる30ほどの部族語があり、共通語のテトゥン語が一般公用語。現在はポルトガル語も公用語となり、インドネシア語と英語も実用語だ。東ティモールは、テトゥン語でティモール・ロロサエ(Timor Lorosae)。「陽が昇るところ」という意味だそう。

ディリから東の近郊バウカウへ。日曜の朝6時、身なりを整えた人々が教会に集う。祈る姿は外にもあふれる。バウカウから内陸の山へ上がる途中、ドライバーが車を停めた。山道の崖には四角い大きな穴。第二次世界大戦時の日本軍の基地だったという。

 島の東部に入って目をひくのは、藁葺き屋根の部分が細長い高床式の家。遠くに雄々しい山岳を眺めながら、ひたすら東に進むとトゥトゥアラに。高台の眼下は青い海と樹海が広がる。崖を降りたところに岩絵があるといって、村の青年が案内してくれた。海に面した崖の中腹に、赤い手の形や赤茶に黒や白の円や線などなど、さまざまな模様が… 村には家系や地縁によるグループがあって、岩絵のことを語れるのはその一つだけという。

 山道を下ると、海に出た。そう広くはないものの、白浜がつづき、澄んだ波が打ち寄せる。その向こうにはジャコ島と呼ばれる小さな無人島。浜で漁師の親子に会う。手作りの舟を試し乗りするといって、白木の舟を波間に運び、櫂を漕いで海を滑っていった。

 ディリから西へ、中西部の標高が高くなるあたりに行くと霧に包まれた。エルメラ県などの道路沿いや山の斜面一帯にはコーヒーの木々が並ぶ。気候風土が良質なコーヒーに適した産地。たわわに成った実を子どもたちが収穫を手伝っていた。

 西ティモールにある飛び地オエクシへ。ティモール島の西半分はインドネシアの国土。そこに東ティモールの国土が飛び地であるのは、17世紀、ポルトガルが初めてティモール島に上陸したのがこの地だったから。当時の歴史を記した記念碑と砲台がある。道沿いの民家を訪ねると、母屋の離れに、作物を保管する小さな藁葺きの小屋があり、中には守り神のような木偶があった。

インドネシアと国境を接する南西部コバリマ県。県都スアイの中心にある教会前には、色鮮やかな花が飾られ、名前が刻まれた石が並んでいた。紛争時、数百人が逃げ込んだ挙句に殺されたメモリアル。目につく建物もまだ焼けただれたまま。それでも、新しい国づくりに向けて、人々は雨をしのぐ所をやりくりして身を寄せ合い、庭で煮炊きをながら暮らしていた。

 たまたま人が集い賑わうところに出くわすと、結婚式だった。それも若い新郎新婦だけでなく、長く続いた紛争などでできなかった人たちも含めた合同のもの。民族衣装も表情もまぶしい。

レンズを向けると、穏やかな眼差しを返してくれた東ティモールの人たち。闘鶏をする人、荷を運ぶ人… 。紛争の傷がまだ生々しかった当時、なにげない日常がいとおしく、喜びにも感じられる一瞬一瞬だった。また訪れたい…

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